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3/19講演会「チェコの人形劇」 講演録

 ブラティスラヴァ世界絵本原画展の関連事業として3月19日、人形劇研究家の加藤暁子先生をお迎えして講演会「チェコの人形劇〜20世紀初頭の家庭用人形劇場をめぐって〜」を当館映像ホールで開催しました。
 当日の講演録がまとまりましたのでご紹介いたします。

■講演会「チェコの人形劇〜20世紀初頭の家庭用人形劇場をめぐって」講演録
 2011年3月19日(土)午後2時、映像ホール
 講師:加藤暁子先生(人形劇研究家)

 今日はチェコの人形劇について、図版や映像も使いながら1時間半の構成で進めてまいります。レジュメに沿って前半お話ししまして、後半は図版を見ていただきながらお話していきます。そのあと、いろんなタイプの人形を遣っている映像がありますのでそれを見ていただきます。今回展示を拝見して、細かな説明をしながら見ていただいた方がよいなと思いましたので、具体的に展示物を見ながらご質問をいただいてお話できる時間がとれればとも思っています。
 いまスライドに写っているのは、展示室の出口に飾ってありますが、私が所蔵している紙製の人形劇場です。発行はチェコスロバキアの国立児童図書出版と書いてありますが、ブック型で開くと舞台装置や森の装置、竜や王様、兵隊、お姫様、悪魔などが平面にプリントされて入っていました。これをコルクとピアノ線を使って組み立てました。これが舞台になるとこうなります(組み立て後の図版を映す)。折りたたみ式の舞台と人形が出来たところです。なかなかチャーミングなもので、チェコの本屋さんで1962年に売られていました。出版されたのは1960年です。
 私は1955年から人形劇を人形劇団で始めました。ここでお話するようにと言われたときに「川本さんがお元気なら川本さんがなさるんだろうな」と思って、川本さんとのお付き合いの年月を思い出していました。
 最初にお会いしたのは1957年でした。『こぶとり』という人形映画を作っておられまして、私はその端役の鬼の人形の一群だと思いますが、アルバイトで人形作りに行ってました。川本さんはずっと独身と皆さん思っておられるでしょうが、その頃、ちょうど新婚でいらして、私は「奥様はどんな方なんだろう」と興味しんしんでした。ご自宅と工房が一緒だったんですが、夕方に奥様が2階から降りてらして「今夜、夕ご飯何にします?」って聞いたら、川本さんが「ポークチョップ」と答えられたんです。今なら皆さん横文字のものをご存知でしょうけれど、1957年に私はライスカレーとコロッケしか片仮名のものは知りませんでしたので、ポークチョップって何だろうと思っていました。あるとき料理雑誌でレシピを見つけまして、お肉を焼いて取り出して、玉ねぎとピーマンを細かく刻んで炒めて、それにケチャップとお醤油と日本酒を入れなさいと書いてある。そうして作ったソースに焼いたお肉を戻して混ぜるというレシピだったんです。これが川本さんの新婚の奥様が作った料理なんだと思って一生懸命作りました。ちょうど私の子どもが育ち盛りで、しかも簡単なので、今でもおふくろの定番の味として子どもたちが来ると作ります。「川本さん、あのころお若かったな。私も若かったな」と思いながら作っています。これは川本さんとのささやかな思い出話です。その新婚の奥様はいつの間にかいらっしゃらなくなって、川本さんもあの世に行ってしまわれましたので、今なら言ってしまおうかと思ってお話しました。
 私は1962年に、チェコに人形劇の勉強に行きました。川本さんは1963年にプラハに行かれてトゥルンカさんのところで勉強されました。私は一歩先でしたので、川本さんが「今のチェコはどんなふうですか」と聞きにいらしたりして、私は人形劇を勉強し、川本さんは人形アニメーションの工房でアニメーションの勉強をなさいました。その後も私は人形劇の仕事をずっと続けましたし、川本さんは人形を動かして映像で撮るということをなさいました。仕事の上でのお付き合いは少なくなりましたが、作品を互いに見合うといいますか、公演があればご案内しましたし、川本さんが自作のものを発表される時は私も見に行くというふうで、人形をつかってアートの世界をつくるという意味では同じような並行する歩みをしてきたなと思っています。今日この美術館でお話できるというのは、うれしいといいますか、ちゃんとしなきゃと思って今日を迎えました。
 まだ余談です。大きな地震がございまして、東京から飯田へ来る高速バス、高速道路が今までになく上りも下りも空いていて定刻より早く着きました。着いた時すごくほっとしました。「こんなきれいな雪を頂いた山がここにはあるんだ」と。昨夜ホテルで休みましたが、東京のように余震がなく、夜中に起こされることもなくて。また、東京で飯田へ行くと言いましたら「玄米買ってきてくれない?」と亭主に言われました。「お店からお米が消えた」と。玄米が大好きな夫で「白い米もないし、玄米もない」と言われて「飯田に行って玄米ねぇ」と思っていましたら、出発する日の朝に「あったぞ!」と。2キロの小さな袋をスーパーの隅っこで見つけたと帰ってきました。ですので、飯田の静かな夜ときれいな風景はいいな、と思って過ごしているところです。
 1960年ごろ、チェコスロヴァキアという国名は日本人には聞きなれないものでしたが、評判になりだしたときがありました。日本にチェコの人形アニメーションが輸入されて、日比谷の映画館で公開されました。それでチェコスロヴァキアというのは人形で表現するアートが盛んだということでワッと評判になりまして、私もこういうことをやっている国ならそこへ行って勉強したいと思いました。川本さんも『王様の鶯』というトゥルンカの映画を見てチェコに行きたいと思われたということで、60年代に人形アニメが日本に上陸して、チェコの人形芸術が評判になりました。チェコスロヴァキアという国名が広がって、落語の前振りで「チェコスロヴァキアって知っているか?チエコさん、風呂場きゃぁ?って覚えればいいんだよ」なんて話されるようになって、そういう過程の中で知られるようになりました。
 チェコとスロヴァキアに分かれたのが1993年。今やっている原画展はスロヴァキアの首都のブラティスラヴァから来ています。人形たちは、チェコのフルジム市にあるミュージアムから来たものです。1918年にチェコスロヴァキア国はできているので90年ぐらい一緒でした。チェコとスロヴァキアに分かれたのは1993年。チェコだけになって20年足らずの兄弟のような国です。
 ヨーロッパの中にボヘミア、モラヴィア、スロヴァキアという地域があります。ボヘミアとモラヴィアがチェコ語の範囲で、現在チェコ人が住んでいるところです。スロヴァキアはチェコ語と非常に近い言語を使っているところです。ボヘミアは明治大正ごろにボヘミアンという名前で伝わりました。大正期の文化人がヨーロッパから来たばかりのシェリー酒を飲んでボヘミアンの真似をした。ボヘミアンは、放浪しているけれど知的な感じで芸術家ぶっている、という概念があったんです。
 60年代のチェコ、それは社会主義の国でした。日本で人形アニメが有名になったように、国際的にも、資本主義の国でもチェコの人形アニメは有名になりました。私が行った62年はウニマ(UNIMA)のセンターがプラハにありました。ウニマはフランス語で、ユニオン・インターナショナル・デ・マリオネット(UNION INTERNATIONALE DE LA MARIONNETTE)。1925年にできました。そのセンターがプラハにずっとありまして、その後はポーランドとかフランスのシャルルヴィルメジェールに本部があります。資本主義、共産主義問わず、ロシア、ハンガリー、ルーマニア、フランス、イタリア、日本なども含めた人形劇の国際組織のセンターがプラハにありました。しかも芸術大学の演劇学部の中に人形劇科がありまして、大学レベルの人形劇の学校を持っているところは、当時はチェコだけでした。日本ではそれぞれのプロの劇団が養成しているという状態なのにチェコには大学レベルのところがあって、そこに行きたいと思いました。ただ4年間は行けないので7ヶ月だけいてよいということで奨学金が出ました。川本さんは1年半以上プラハで勉強されています。
 チェコには大学レベルの人形劇を勉強する場がある、そして公立劇場がある。演劇研究所の中に人形劇部門があって、その部門では人形劇の専門の研究誌、普及誌を出していました。その雑誌が発行されるようになったのは1913年、チェコスロバキアが独立する前からで、もう100年になりますが、今も発行は続いています。人形の作り方も含めて、最初は実用書のようなものを出していました。それから人形劇に特化した美術博物館もありました。そのように実演を下支えする組織がプラハには揃っていたことになります。62年当時、私が研究所を訪ねて驚いたのは、新聞などの人形劇の記事の切り抜きを専門にする人がいるんです。いまはデータを集めたりする部署があるんでしょうが、こういうことをする専門家がいるんだということが分かりました。私も帰国してから人形劇関連の記事を切り抜くようになりまして、今は段ボール箱いっぱいになっています。そんなことも覚えました。
 下支えするものがあるところへもってきて、チェコには動く人形の伝統があります。これはゴーレム伝説といいまして、お配りした年表の早いほうに書いてあります。16世紀にユダヤ教の僧侶・ラビが土で大きな人形を作ります。口の中におまじないを書いたものを入れると人形が動き出して、掃除をしたり水汲みをしたり薪割りをしたりした。ところがある日、口の中の護符を抜くのを忘れて教会に行ってしまった。一種の機械ですからスイッチが入ったままなので、家の中で暴れまわって、道に出て人の家まで壊し始めた。本来ユダヤ教ではお坊さんが祈りを始めたら途中で止めてはいけないという決まりがあったそうですが、とにかく大変だということでお祈りを止めて帰って、口から護符を抜き取ると泥の人形になった。屋根裏部屋に上げられて、今はただのほこりになりましたという伝説がチェコにはあります。最近ではゴーレムの映画もできたそうです。
 またロボットという言葉の語源もチェコです。これは1921年にチャペックという人が書いた、機械的に動くロボットが人間に反抗して大変な騒ぎが起きるという戯曲です。英語で労働者のことをレイバーといいますが、チェコ語ではロボタといいます。ロボタの意味は「働くことは楽しいよ」ということではなくて、奴隷労働のような意味を含むもののようです。ロボットの語源はチェコ語であるということも豆知識として覚えておいていただければいいかと思います。
 年表に入ります。チェコは、今は小さな国ですけれど、神聖ローマ帝国がヨーロッパを支配していたとき、プラハは首都になることがありました。そのとき皇帝になったのは元チェコ王のカレル4世。プラハにカレル大学というヨーロッパで一番古いといわれている大学を作りました(1348年)。ヨーロッパの文化の中心という位置にプラハはありました。ただヨーロッパの中でカトリックとプロテスタントの争いがありまして、1415年にフスというプロテスタントのお坊様が火あぶりになるという事件がありました。それからプラハは宗教や政治が絡む戦場になってしまって、1620年にチェコの貴族がオーストリアに全滅させられます。昔の戦争は日本の戦国時代と同じで領主同士の戦いで農民は移動することができませんので農奴になってしまいます。領主たちはオーストリアに負けて逃げるか殺されるかしてしまうということがありました。17世紀以降は完全にドイツ化されて、チェコ語は地方の人だけが話すもの、公用語はドイツ語だけという時代が続きます。年表の最後に“1886年にチェコ人が官公吏になれるようになった”と書きましたが、1620年の負け戦から200年以上、チェコ人は役人になれないという制度がありました。
 チェコの文化はほとんど西から来ました。16世紀にはイギリス、オランダ、ドイツから人形芝居が巡業にやってくる。演劇も西ヨーロッパから来る。プラハで上演される演劇はすべてドイツ語やフランス語でした。プラハ市民は日常的にドイツ語を使っていたといわれる説があるぐらいで、チェコ語は地方の言葉とされていたようです。文化が西からどんどん来た影響で、チェコの人形劇にはヨーロッパ演劇文化との共通項がいっぱい詰まっています。今回の展示物を解読していきますと、遠い昔の文化が分かります。日本でいうと漢字が中国から来たような、ヨーロッパ的な文化の下地があったということがわかります。
 チェコ人形劇の誕生に入ります。プラハは城壁に囲まれていました。その中ではドイツ語を話していますが、その周りは農村部でチェコ語を話している。チェコ人による人形芝居ができたのは18世紀の半ばで、巡業劇団が町や村をまわりますが、それはチェコ語で行われていました。チェコで独立の気運が高まったときに、文化人やジャーナリストをはじめ、チェコ語に対して皆が関心を持つようになります。カレル大学でもチェコ語の講座が持てるようになる。人形芝居の人たちはみんなチェコ語でセリフをしゃべっている、チェコ語で劇をやっているということがジャーナリストの目に留まり、それが雑誌に寄稿されたりします。それまでは巡業の人たちが親から耳で覚えていたセリフを、戯曲に言語に記録するという作業が始まりました。また作曲家のスメタナが人形劇のための序曲を作曲したりするなど、愛国心、独立心が高まったとき、人形劇や昔話などに集中的に色々な関心が加わりました。チェコでは、人形劇は自分たち民族の宝、心のふるさとだと思われるようになっていく過程がありました。一方、フランスやドイツでは映画産業が発達して人々は次第に人形劇を忘れました。チェコだけは人形劇は自分たちの宝だという概念が強く残った。それがいま展示されているものにも反映されています。
 ここからは展示物に関したものを図版で見ながらご説明します。
 これはイタリアで私が夜店で買った騎士物語の人形です。実際に今もイタリアのシシリー島で上演されています。1メートルぐらいの高さがあって鉄線で吊られて遣う人形で、騎士たちが戦うたびにガシャーン、ガシャーンと音をたてます。相当大きなものです。手にも太い紐がついていて、足はブラブラです。構造的にいうと展示されている人形と同じで、ただ人形のタイプが小さくなるだけです。これは舞台の幕と飾りでこれから騎士物語をやるぞ、という雰囲気。これは人形を操作している写真です。あんなに高いところから鉄線を振り回すようにして操って戦います。負ける方の軍隊はどんどん倒れていく。死骸の山ができて30体ぐらい積み重なっていく。なかなか勇壮なものです。
 これはヨーロッパの中世の人形作りの絵ですが、やはり操り人形の頭には鉄線がついています。この鉄線で吊るという方法は、ヨーロッパの長い間の伝統だったように思います。これはチェコの人形の古いもので、下はファウスト、上は悪魔です。棒で吊りさげて人形を遣う伝統がどうしてあったかというと、それは日本とヨーロッパの違いですが、ヨーロッパは人形を人間のミニチュアと考えるということが色濃くあったと思います。日本は人形を捧げ持つ。お榊でお祓いをしたりしますが、お祓いの行為が人形まわしに転化したという説もあるぐらいで、人形は捧げ持つものだという感覚が私たちの先祖の中にあったのではないかと思います。
 これはイギリスのロンドンにあるポロックというお店で、トイシアターというおもちゃの劇場や人形を売っています。私がこの店に行ったのは1990年代ですが、小さいけれどチャーミングなお店でした。イギリスは変化が少ないですからロンドンに行かれたら探してみてください。イギリスでは子どもたち、特に男の子が19世紀の終わりごろ、小さい人形舞台を持っていろんな家を訪ね歩いて劇場ごっこをやるということが流行ったようです。これはイギリスの相当お金持ちの家庭の居間です。語る人がいて人形を動かす人がいて、トイシアターというおもちゃの劇場があって、それを見ているのは子どもや若い女性。むしろ大人が子どものために人形劇をしてあげている。
 いま展示されている家庭用の舞台も、私の予想ではチェコのかなりお金持ち、地方の領主様みたいな人たちがまずはああいうものを持っただろうと。例えば映画の『サウンドオブミュージック』の中にも、子どもたちが操り人形をやる場面が出てきます。それはどういうときにやっているかというと、これはザルツブルグの貴族の話で一家がナチスの抑圧を逃れてアメリカに渡って子どもたちの合唱団を作るという話ですが、父である男爵の婚約者が現れたときに子どもたちが人形劇や歌を披露するという場面があります。多分、パーティーのときにやったのだと思います。チェコでも人形劇は何か特別なパーティーのときにやったのではないでしょうか。イギリスで少年たちが人形を持って家々を回るのが流行したというのは面白い話で、日本で言うとひな祭りの人形は女の子のものですね。演劇を、劇場を自分の家に持ち込みたいといいますか、外に見に行くだけでなく家の中に劇場を作りたい、劇場ごっこをしましょうという欲求から始まっているのだと思われます。
 さて次です。チェコの人形遣いでコペツキーという人が19世紀に街々を巡って、当然チェコ語で上演していたんですが、とても大きな人形を遣って幌馬車でまわっていました。巡業の旅芸人の絵です、太鼓を叩いて子どもたちを集めて、ここには「白いライオン」という宿屋の名前が書いてあります。これがコペツキーという人で、この人の仕事が文字化されて人形劇の戯曲集になりました。日本では浄瑠璃本は作者が書くと舞台の幕が上がる前に木版印刷された台本が出回ったそうですから、日本の方が人形劇の文字文化は早かったと思います。
 これはカスペルというドイツの道化役が悪魔に乗っている絵です。今回の展覧会でもチェコのカシュパーレックという道化役の人形がたくさん出ていますが、これは悪魔を乗り回すこともできるという絵です。カスペルはどういう役かというと、日本で言えば芝居の上では太郎冠者と似ています。主人がいて、その主人にうわべで「ヘイヘイ」と言いながら、後ろで舌を出している。ちょっと給料がよければ他の主人のところへ行っちゃうというような本音の男です。だけどおせっかい焼きで、トラブルがあるとそこへ行って芝居の成り行きをパッと変えたりします。赤い帽子を被って鈴をつけているので、この人が出てくるとチリンチリンと鈴が鳴ります。世の中を密かに動かしている男です。
 これは1913年に発行された人形劇の専門誌の表紙です。小さな家庭用の舞台でセーラー服を着た女の子が遊んでいるところで、人形はミコラーシュ・アレシュという人のデザインです。人形劇の舞台で、人形の人形遣いが人形を操るというシーンもあります。この人形は市長といわれていますが、実際はアレシュ自身らしい。アレシュ人形という名前で今回の展示にたくさん出ています。これは画家が自分で舞台を作って、奥さんや子どもたちに見せているという図です。ちょうど展示室に飾ってあるのと同じようなものです。これは悪魔です。悪魔はヤギが変身したものだと言われています。
 これは人形劇場でここに人形がいますが、楽隊が絵になっています。人形劇場に書かれた文字に意味があって、“ナーロド・ソビエ”と書いてある。ナーロドとは、ナショナルのことです。チェコの国立劇場は1918年、チェコが独立してからチェコ各地から人々が礎石を運んで建設したものです。劇場の入口にナーロド・ソビエ、『国民自らが』という文字が書いてある。それをミニチュア化した人形劇場内部です。やはり人間の世界のミニチュアだったのではないでしょうか。
 これはナチスが占領していたころの風刺画です。空襲の飛行機が飛んでいて、鉄線が張られている。そこでお父さんのスペイブルが息子のフルヴィーネクに『しっ』物言うな!って言っている。このシュペイブルとフルヴィーネクの人形は展示でも飾られています。この親子の人形を生み出した人形遣いのヨゼフ・スクパはドレスデンの収容所に捕まって入れられたんですが、空襲のときに逃げ出してプラハに戻って、戦後もずっと活躍なさいました。なかなか面白い芝居をやる方です。
 これは『ふしぎな森の人形たち』という童心社が90年代に出した本で、カシュパーレックが舞台で挨拶をしています。チェコの人形劇に登場する役柄がいっぱい出てきます。悪魔、王様、お姫様、おばあさん、女の子、赤頭巾ちゃんとおばあさんと、色々な話が出ている本です。これはチェコの河童、空き缶を持ってます。昼間は赤い靴を履いて居酒屋を巡ってお酒を飲んでる。頭の上にお皿はありません。最初は蛙じゃないかと思いますが、夜は川べりの柳の木の下にいて、空き缶にお水を入れて通る人の魂を抜き取るという怖いことをします。これは悪魔が変身した王様です。これは泥棒、山賊、みな人形劇のキャラクターです。これはわがままなお姫様。ケーキや色々なご馳走があっても「何も食べたくない!」って騒いでいます。農村から食べさせるためにやってきたホンザという男の子がお尻を3回ぶったらピョンと飛び上がって、ホンザが持っていた黒パンをあげたらそれから何でも食べるようになったという昔話があります。これは勇敢な騎士が竜を退治するバヤヤというお話。人形アニメにもなっていますね。だいたい竜は悪魔と結託して悪いことをする。地獄の火を燃やし続けたりもしています。これはカシュパーレック。子ども向きの5センチぐらいの小さなものです。これで図版のお話は終わりです。続いてお見せする15分ほどの映像は、1960年代のドラック(DRAK)という劇団のいろんなタイプの人形が登場します。
 小さな家庭用の人形舞台は、現在のチェコではだれもが家庭で持っていて楽しんでいるということはありません。すごく流行ったのが19世紀から20世紀のはじめ、1913年からは毎年新しい人形劇場セットをデザイナーがデザインして発表していました。日本で言えば今年のお雛様という感じでしょうか。人形はカシュパーレックとか王様、お姫様、悪魔とか昔話の登場人物です。日本の雛飾りと似ているなと思ったのは、どの家庭にも普及していくのは明治のころで、それまではお殿様がお姫様のためにお買い求めになるもの、お金持ちのものでした。明治になってサラリーマンが増えてだれもがお雛様を買って、お金がない家庭は少しずつ買い揃えていくということがあったように、チェコでも20世紀の前半にそれが非常に流行って、大小の人形劇場を家庭で持つようになった。貧しい人は、最初は人形2、3体から始めてだんだん買い足していく、人形を買ってから舞台を買うということがあったそうです。
 チェコの家庭の人形劇場を見てつくづく思ったのは、劇場文化が家庭の中に入っているということです。文化の違いが見えますね。お雛様はセレブ志向といいますか、上流階級の暮らしに憧れるというふうです。チェコを含めてヨーロッパの家庭の劇場は、演劇を楽しむ。劇場文化が市民社会の中に入っていたというのが大きな違いで、演劇の普及という意味では日本もこれから改めて取り組んでもいいのではと思います。特に飯田は人形劇のお祭りをやってくださっている街ですから、人形劇の底辺というか、一番支えになる基本の部分の考え方をきちっとつけて支えていただければいいなと思っています。


※無断転載禁止


 

 

2011.04.14 Thursday | イベントレポート
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